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阿賀野市立吉田東伍記念博物館所蔵

初代所長 石塚三郎
プロフィール

新潟県北蒲原郡安田村出身(現新潟県阿賀野市)1877~1958(享年81歳)
新潟県歯科医師会会長、日本聯合歯科医師会理事(現・日本歯科医師会) 大東文化大学理事
東京歯科大学理事を歴任。1928年から衆議院議員に2期当選し、歯科医師法の改正に尽力。
写真家としても知られ「北越写友会」を組織、当時の膨大な写真は貴重な資料となっている。

学生時代に野口英世と交流を深め、以後野口が亡くなるまで書簡での交流を続けた。
特に、野口の母直筆の手紙を送り、一時帰国を促したとされる。
野口の帰国時は各地の講演・表敬に同行した。
野口没後、その功績を称えるため野口英世記念会を創設、博士に託されたパプラールを開発した。
長い年月にわたる研究の末、野口から託された医薬品開発を成し遂げた。

石塚と野口博士の交流

野口英世博士は命を賭して黄熱病、梅毒、蛇毒に関する研究をして、その結果は広く世界で認められ医聖として讃えられています。博士は幼い時に手に火傷を負い、医学によって助けられたことから医学の道を志し、血脇守之助氏(高山歯科医学院・現 東京歯科大学)の下で精進することになりました。
その時、兄弟子として石塚三郎が生活を共にすることになり、以後二人は生涯実の兄弟のような心の交流を続けることになりました。 そして野口博士が米国のロックフェラー財団に招かれ渡米し、世界的名声を博するころ、歯科医として研究・治療にあたっていた石塚は、血脇守之助氏に随行して中国大陸に渡り、 現地で歯の治療を行っていました。中でも、袁世凱の歯を治療したことで評判となり、大陸各地で歯の治療にあたりました。
帰国後、石塚は故郷の新潟県長岡市で歯科医を開業し、1907年に新潟県歯科医会初代会長に選任、後に日本聯合歯科医師会理事の理事に就任。各地に歯科医院・診療所を開院し、歯科無医地域の出張診療を展開しました。また、1924年から衆議院議員を2期務め、歯科医師法改正の立役者となっています。当時の歯科医は医師として認められておらず、技師としての立ち位置だったため、現代まで続く歯科医社会の礎を築いた功労者として、歯科医学会の重鎮となりました。

白金パラジウムナノコロイドが
完成するまで

大正4年(1915年)一時帰国した野口博士は、親友の石塚三郎と共に故郷の猪苗代を訪れ、母と小学校当時の恩師小林栄先生と共に、東山温泉に投宿しました。
その夜、小林先生が博士に「野口、お前は医学上の大発見をしたが、治病上の発見はないのか」と問うと、「実は今、万病に適する基礎的医薬の実現を考えています」と答えました。博士の脳裏には既に、このとき<パプラール>の原型ともいうべき構想があったのです。

その後、新潟県長岡市での講演会を終えた博士は石塚医院を訪れ、院内の技工室にある設備を熱心に検分した後、石塚に自分の構想を話しました。「自分は十数年間ひたすら細菌の研究に没頭し、はからずも病原菌を発見し大成しました。その結果、必然的に治病に関する医薬の必要を感じ、研究の末ほぼその輪郭を 明らかにすることができました。それは白金族の特有性である酸化還元の力を人体の組織内に作用させることです。その結果、細胞その他の機能を増進させ、そこに固着する一切の病原菌並びに老廃物を滅亡させます。 貴方は白金族の処理に深い経験と技術をもっているから、私に代わって白金族のコロイドを作ってくれませんか。」そして博士は再び渡米の地についたのです。

石塚は博士と研究成果の手紙のやり取りを続ける一方、昭和3年(1928年)5月に博士は『白金パラジウムナノコロイド』の完成を見ぬまま、西アフリカに於いて黄熱病のため惜しくも帰らぬ人となりました。
石塚は親友の死を深く悲しみ、博士の理論と意志に基き、その後さらに数年の研究を重ねた結果、昭和11年(1936年)遂に望まれていた『白金パラジウムナノコロイド』が完成したのです。
両名の長年にわたる努力と開発秘話をよく知っていた小林栄先生は、この石塚の偉業を「世のために道の為に二十余年の間刻苦精励せられて、遂に一薬万病に適する霊薬を完成せられたのは、実に神秘不思議ともいうべく、野口博士の再来と思はれる。
貴下と博士の協力によって救世的霊薬の出来たことは邦家の為め実に大慶至極に存じます。(原文ママ)」と讃えています。

出典:野口英世 不滅之精神 財団法人野口英世記念会 昭和30年11月3日発行(35~37頁)
パプラールの由来 寿星会 昭和31年11月9日発行(10~13頁)
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